後世に伝えたい、安寧を願い見守る観音様

住宅街の観音さま

説明できないこと

世の中には説明できないことがある。

それが土地や怨念によるものならなおさら。

近くにあるがあまり知られていない。

住宅街にポツンと立つ観音様

町の住宅街にポツンと立つ観音さま。

そんなに古くない。

どちらかと言えばまだ新しい。

観音様の理由

どんな理由で建立されているのか。

気になっていても土地の人でなければ知る由も無し。

けれどその理由は隣にある碑に刻まれていた。

観音様の建立理由

碑に刻まれている文字(原文)

当大谷場地区は昔武蔵国足立郡浦和領大谷場村と称し、農家も疎らな一寒村であったと言われる。

因みに現在私立大谷場小学校西南隅に鎮座する庚申塔(従来は山王様と呼ばれ安産の神として崇敬された)。

建設役員の一人に木村己右衛門と刻銘あり、是れが寛文八年の事であるので当家は開祖以来、優に数百年を経ているものと思われる。

又地域発展の基盤をなす南浦和駅設置の宿願も昭和三十六年土地区画整理事業の完成と共に実施され現在の都市振興を見るに到ったが整理着工以前は全く静閑な田園地帯で、当家の隣接の中村家境の竹山に木村家先祖の墓地と伝えられる一角があったが事業計画幹線道路の用地として地域発展の犠牲となり、永年祭祀された本塚を失ったことは誠に遺憾至極であった。

一方、当家西側に在る三角地は俗に「比丘尼山」と呼ばれ、昔盲目の尼僧が独り住まいし、当家とは特に親交があった由で其の他は詳らかでないが薄幸な一生を愁しく終わったものであろう。

従来は昼猶暗い欝蒼とした森で此の事実を物語る古井戸も残っていたが都市化の伸展に伴い、昔の面影も無く変貌し転々として多くの人手に渡ったが俗に言う潰れ屋敷の因縁がつき纏い、地主となった者何れも不慮の災禍を免れなかったと聞いている。

猶、当地区(旧北原)に於ても最近まで是れに似た悲惨な災厄が少なくなかったのも衆知のことで何んともいまわしく只々霊現の幽玄さに驚愕する。

以上の理由から茲に悲運な諸霊を追善してその怨念を安堵ならしめ斯かる不祥事を根絶し、当地区永遠の平穏安泰を希い、此の碑を建立する次第である。

南無大師遍照金剛 合掌

昭和六十年三月吉日

願主 木村 仁三郎

碑を要約

この観音様は地主の木村仁三郎氏が1985年に建立した。

木村家は1668年以前からこの土地に住んでいる。

1961年に南浦和が出来、土地区画整理がされ、今のような住宅地として多くの人が住む発展した町となる。

その以前はのどかな田園地帯で隣の竹山には木村家先祖代々の墓地もあった。

しかし、事業計画幹線道路の用地として取り上げられ、先祖の墓地を失ったことは心に痛い。

一方、当家西側に在る三角地は比丘尼山(びくにやま)と呼ばれ、昔盲目の尼僧が独り住んでいた。

詳細はわからないが幸せとは言えない一生を終わった。

昼なお暗い、うっそうとした森だった時代この事実を物語る古井戸も残っていた。

しかし、都市化の伸展に伴い、昔の面影も無く変貌し、土地の持ち主が転々と変わった。

潰れ屋敷の因縁がつきまとい、地主となった者は誰もが不慮の死を遂げた。

当旧北原地区においても最近までこれに似た悲惨な災厄が少なくなかった。

何んともいまわしく、怨念の強さに驚愕する。

以上の理由から悲運に亡くなった人々の霊の冥福を祈り、怨念を落ち着かせ安らげるよう、かかる不祥事を根絶しこの土地に永遠の平穏安泰を願う。

大日如来様 お願いします。

未来に伝える観音様と碑

発展した都市浦和の一部に昔、土地の人でないと知らない淋しく悲しく苦しんだ過去がある。

言い伝えられる人がいなくなった時、過去の辛い思いと願いが消える。

消さないため、伝えるためにこの碑がある。

今も三角の土地は手つかずに残っている。