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不思議なタコ八郎、捨て身で体当たり

型破りな役者

昔、タコ八郎という風変わりな役者がいた。

めちゃくちゃギャグが面白いとか目を見張る芸を見せるとかいう訳ではない。

肉体派俳優、何処にいても何にでも頭をぶつける体当たり演技。

かと思えば言語不明瞭、意味不明なセリフを喋りタコ語録と言われた。

いったい何処までが演技で何処までが地なのか解らない不思議なキャラクターの持ち主。

昭和50年代に映画やテレビで活躍したコメディアン。

プロボクシング日本チャンピオン

本名は斉藤清作。

タレントになる前は現役プロボクサーでしかも日本チャンピオン。

ボクサーだった頃のタコ八郎も変わったボクサーだった。

試合で構える姿はファイティングポーズではなく、両手をダラリと下げ、顔面隙だらけのノーガードで相手に立ち向かう。

後に「ノーガード戦法」と名前がついた。

明日のジョー

漫画で爆発的人気になった「明日のジョー」、孤児の不良である矢吹丈が東京山谷の下町で飲んだくれの丹下団平と知り合い、その後ボクシングで勝ち上がり、世界チャンピオンと戦うというストーリーだ。

最後の世界チャンピオン戦、試合終了と共にジョーは真っ白な灰になって死んでしまう。

そんな明日のジョーが戦った戦術が両手をブラリとさげ、相手に好きなだけ自分の顔を打たせて疲れたところを叩きのめすという恐ろしい戦術だ。

ノーガード戦法

その漫画のヒントになったのがタコ八郎のノーガード戦法だった。

相手の強いパンチを顔面に受けても倒れない。

相手のパンチを顔面に受けるということは怖いことだ。

その怖さに耐えて、さらにパンチの衝撃力に耐えなければいけない。

よほど打たれ方が上手でなければ、通常の人間にはできない。

打たれた瞬間に力を逃がす。

パンチを打つ方にも変化が生じる。

パンチを打つ方が怖くなる

自分にとって最高のパンチが相手の顔面に入っているのに倒れない。

それならと、更にパンチを相手の顔面に入れる。

何発、パンチを入れても相手は倒れない。

おかしい?

今までならとっくに相手はダウンしているはず?

そして何発もパンチを入れる。

まだ倒れない。

おかしい?

何かが違う?

やがて相手は不死身じゃないのか?

疑問が湧いてくる?

焦りが生じてくる。

恐怖が湧いてくる。

そう感じると共に疲労からパンチが出せなくなってくる。

それを待っていたかのようにタコ八郎がパンチを繰り出していく。

ノーガード戦法は明日のジョーが世の中に広まる前にタコ八郎が使っていた戦術だった。

明日のジョーを地でいくタコ八郎、「ノーガード戦法」で日本チャンピオンまでなった男。

何をやっても型破りなタコ八郎。

タコ八郎の友人たちは語る

妖精で?怪物で?子供?

「タコちゃんていうのはね、なんというのかな。誰かが、あの人妖精みたいな人ねって言ったよ。」

「人間ではないみたいな感じがすんだよ、怪物だ」

「あの人は裸の王様を見抜く子供のような人なんだね~」

妖精で?怪物で?子供?そんな人間ているのだろうか。

タコ八郎という人は

「ボクシングは強かった」

「打たれ強くて根性のあるボクシングをしてました」

「左目を失明していたことは誰にも言わなかった」

「失明していたことは亡くなってから初めて知った」

「左目を失明していてボクシングの世界へ入っていったなんて信じられない」

「初めて会った時は目が綺麗で澄んでいて、純粋そうで瞬きをあまりしないなっていう印象がありました」

「セリフが覚えられない、一行もセリフが覚えられないんです」

「タコさんの場合はいくらNGを出しても、嫌な顔をするスタッフがいない稀有な存在でした」

「タコさん、タコさん、ってスタッフ皆がタコさんを好きだったですからね」

「なんか本当、子供のような純粋さを持った人じゃないかなと思ってました」

「稽古場に行くと、由利徹がまたこいつ昨日寝小便しやがってって言うと、タコ八郎は頭を掻いてて、どういう人なんだろうと思っていた」

「でも、長い時間一緒にいると泣けてくるぐらい良い人って感じでした」

「全然威張らない、どんな後輩でも敬語で話をするんです。そしていつも控えめなんです。」

「欲がない人、全ての物に対して欲がないということで、芸に対する欲は凄かった。だからあんな捨て身の芸をしたんじゃないでしょうか」

「ボクシングも捨て身なら、お芝居も捨て身だった」

「自分のハンデそのものを芸にしてしまう、凄いですね」

「浅草時代がタコ八郎の中で一番大きな意味を持ったんじゃないかと思う」

「彼はストリップ劇場で世話になるんだけれどやはり寝小便が治らない、夜中2時になると決まって寝小便をしてしまう。それでも劇場主はタコ八郎の面倒を見ていた」

「夜は飲みなよ!飲みなよ!って皆がお金をめぐんでくれるんです」

「飲み屋で金払ったの1回も見たこと無い。飲み屋で金いらないって言うんだ」

「タコちゃん来てくれるだけでいいよって」

「本当に不思議な人」

タコ八郎のメモ

かと思うと彼は酒場のカウンターで安酒を飲みながらこんなメモを書いている。

「命は天からの授かりものだ」

「バカでも自然から学ぶことができる」

「演技力のないこの私を」

「自分は社会の作品」

どんな思いで彼はこんな言葉を書き留めたのか?

妖しいタレント、捨て身のボクサー、妖精、怪物、そしてこのメモ。

不思議なタコ八郎が歩んだ人生とはどんなものだったのだろう。

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清作の生い立ち

未熟児で生まれた清作

1940年11月23日宮城県仙台市の裕福な農家に生まれる。

実家は大きな農家、8人兄弟の次男坊である。

未熟児で生まれ、体は小柄。

働き者の父(清次)と母(とく)は農作業に忙しく、清作の世話をするのはもっぱら兄や姉の役目だった。

弁当のエピソード

小学生になった清作にこんなエピソードが残っている。

戦後まもない頃、中国大陸から引き揚げて来たばかりで生活に苦しい家庭の子も多かった。

そんな家庭の子は弁当さえ学校に持ってこられない。

どうしてこの子たちは弁当を持ってこないのだろう?

米に不自由しない農家の子の清作は不思議に思った。

翌日、清作は母に弁当を5つも6つも作ってもらうとそれを持って張り切って学校へ行った。

弁当の無い子に分けてあげようと思ったのだ。

けれど学校に着くと困った。

弁当が無い子が何十人もいる。

これでは足りない。

分けてもらえない子がでたら可哀想だ、どうしよう。

たいした名案は浮かばない。

結局、清作は誰にも弁当を渡すことが出来ずに引き返すとそのまま学校を休んでしまった。

優しくて友達を喜ばせたいとサービス精神豊富な清作少年。

学校の成績は褒められたものではなかったがクラスの中では誰からにも好かれる人気者。

ヒョウキンなことをやり、憎めない子供、皆から人気があった。

泥玉で左目負傷

そんなある日、清作は近所のガキ大将と泥で作った玉をぶつけ合って遊んでいた。

その時、友達の投げた泥の玉が清作の左目に当たった。

痛みを感じながら、親にも告げず、医者にも行かず、放っておいたために視力は急激に失われていった。

これが後の人生に大きな影響を与えることになる。

小学校の上級生になれば畑仕事を手伝うのはあたりまえ、けれど清作は畑仕事が好きになれない。

その頃、清作はあるものを見てビックリした。

サーカスのピエロ。

人を笑わせるスターになりたい

おどけた仕草をしては満場の客から拍手喝采をあびる姿にヒョウキンものの清作は自分の姿を見たような気がした。

俺もあんなふうになりたい。

中学生になった清作が次に夢中になったものは映画だった。

なかでも大好きだったのがドタバタ喜劇。

激しい動きで笑わせるコメディアンに強く心を引かれたのである。

やがて清作の胸にひとつの夢が芽生えていた。

おらも東京さ出てあんなスターになりてー。

色々ハンディーキャップを背負っていた

タコ八郎は見るからに不思議な人。

身長は160cm、体重は43kgしかない小柄な体格の持ち主だった。

ボクサー時代はカッパ頭、タレント時代はしっぽのような前髪、彼はこうしたトレードマークをとても大事にしていた。

彼の顔をよく見ると奇妙なことに気がつく。

耳の真ん中あたりが欠けている。

そして斜視で細い左目、実は視力がゼロ。

不運な出来事の中で減っていった左目の視力と右耳。

しかし、この2つのケガが与えたものはけっして不幸ばかりでは無かった。

彼はあるときこうメモ書している。

俺のこの耳がね、ちゃんとしてたら今頃生きていられなかったりするんじゃないかと思ったりするのね。

彼が生きていくためのバネにしたのがこの2つのケガだったのである。

東京で集団就職

1959年19歳、日本が高度経済成長へ向かう中、清作は集団就職の列車に乗っていた。

自分は農家の次男坊、まして農業が嫌い。

秘かにコメディアンの夢を持っての上京だった。

就職先は銀座の宝石店、しかし漢字もろくに書けないことがバレて配置転換。

その宝石店の系列の映画館勤務。

仕事はフィルム運び。

明けても暮れても毎日自転車の荷台にフィルムを乗せて駆け回る毎日。

フィルム運びをしていれば誰かの目に止まって映画の世界へ入れるかもしれない。

そんなありそうもない夢を見ながら1年が過ぎた。

ある日、清作はたまたまボクシングジムの前を通りかかった。

四角いリング、軽やかなステップ、空気を切り裂くグローブの音。

この時、清作の脳裏にひとつの思い出がよみがえる。

高校時代はボクシング部に所属して県大会で優勝したこともあった。

けれどボクシングを断念した。

理由は左目の傷、泥玉で痛めた目はすでに失明状態、スピードあるパンチは避けきれない。

そう考えて断念をしたのである。

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プロボクサー斉藤清作

ボクシングジム入門

けれど今こうしてジムの中でトレーニングしている同世代の若者の姿を見つめていると胸の底から何やら熱いものが込み上げて止まらない。

ボクサーとして少しでも名前を売っておけば芸人の道も開けるかもしれない。

翌日、清作はジムに入門してしまった。

日本でボクシングが黄金期を迎えようとしていた頃、清作が入門したのはそのボクシングブームの中心となった笹崎ボクシングシムだった。

ちょうどその頃、ボクシングで一家を支えようとこのジムに入門してきた男がいた。

原田政彦、のちのファイティング原田である。

同世代の二人は直ぐに意気投合、酒好きの清作は原田の家族とも親しくつき合うようになった。

難関のプロボクサー試験

こうしてプロボクサーを目指した清作だったが彼には大きな難関があった。

それはプロボクサーの試験だ。

ボクシングの試合に出るためにはプロボクサーにならなければ出場出来ない。

プロボクサーになるためにはプロボクサー試験に合格しなければならない。

プロボクサー試験には学科、実技、身体検査がある。

問題は身体検査の視力検査だ。

左目の視力はゼロ。

視力検査で左目が見えないと解れば試験に通る訳がない。

どうすれば良い?

清作はプロ試験の前に視力表を必死に覚え込んだのである。

結果はなんと合格。

無事、視力検査を通過しプロ資格を得てプロボクサーとなった。

しかし、この後がさらなる難関である。

左目視力ゼロでプロとしてどう戦う?

右目だけでは距離感が解りにくい。

非力な清作には強力な必殺パンチもない。

あるのは粘りだけだ。

じゃあどうする?

自分の弱点を知り、立ち向かう清作が考えたのは前代未聞、あっと驚く戦法だった。

見えないから生まれたノーガード戦法

「ノーガード戦法」だ。

見えないから避けられない。

両手を下にダラリと垂らして相手が打ってくるパンチを顔面で受ける。

相手に好きなだけ打たせて疲れたところにパンチを繰り出すというもの。

肉を切らして骨を断つ、まさに捨て身の戦法。

なんと清作は自分より体重のある先輩ボクサーに好きなだけパンチを打ってもらうという常識外れのトレーニングを始めた。

もっと打って下さいと食い下がる清作。

直ぐに清作が倒れると思っていた先輩の顔が強張ってくる。

よし行ける!

清作の中にひとつの光明が走った。

東日本新人王決定戦

10か月後、東日本新人王決定戦に笹崎ジムは原田と清作の2人を出場させた。

原田は優勝候補のひとり、けれど清作の評価は低かった。

原田と清作はライバルとして互いに技術を磨き上げた。

ノーガード戦法で清作は勝ち続け、ベスト8に原田と清作が入ったのである。

だがこの時2人の明暗を分ける事件が待っていた。

順々決勝を控えたある日、笹崎ジムの笹崎会長は清作を呼び出してこんな話をした。

「いまのまま勝ち進めばお前は原田と当たることになる」

「この世界では同門の選手は戦わないのが原則だ」

「そこでだが清作、おまえ次の試合棄権してくれないか」

清作は考えた。

原田は確かに笹崎ジムのスター選手だ。

しかし、実力で勝負をつけるのがスポーツじゃないか。

そんなバカな!

だけど俺はやりたいんだ。

笹崎会長の声がとんだ。

「おまえ、原田を殺す気で殴れるのか?」

そして清作は苦渋の決断をした。

新人王決定戦、斉藤清作棄権

その夜、清作は盛り場に消えた。

自分はファイティング原田より強い!

悔しさと涙の酒はいくら飲んでも気持ちを楽にはさせてくれなかった。

そして新人王戦を優勝したのはファイティング原田だった。

ファイテング原田はフライ級世界チャンピオンになり、更にバンタム級世界チャンピオンになり世間を驚かせた。

ついに日本チャンピオン

原田が世界なら俺は日本だ。

清作はノーガード戦法に磨きをかけて戦い続けた。

顔面を殴られても殴られても倒れない粘り強さと打たれ強さ。

目指すは日本チャンピオン。

やがてその夢が叶う日がきた。

1962年12月、清作の評価は低かったが試合開始から清作は執拗に攻め、打たれても打たれても前に出て攻め続ける型破りのボクシングでついに日本チャンピオンを獲得した。

第13代フライ級日本チャンピオン誕生。

その後、1年4ヶ月清作は戦い続けた。

チャンピオン防衛2回。

チャンピオンになれば相手も研究してくる。

左目をカバーして戦うのも、もう限界だ。

1964年4月プロボクシング引退、41戦32勝8敗1分。

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芸人タコ八郎物語

喜劇役者に弟子入り

自分にはもっとやりたい事がある。

清作は少年期の夢を温め続けていたのである。

そして思いがけない行動にでた。

なんと同郷、宮城県出身のコメディアン由利徹に弟子入りを志願したのである。

プロボクサー時代にコメディアン由利徹に弟子入りを志願したが断られていた。

その時の言葉は、もしチャンピオンになったら考える、そしてボクシング出来なくなったら来いと。

ボクシングチャンピオンになり、ボクシングも限界の清作は再び由利徹に弟子入りを志願した。

勢いに押されて由利徹も弟子入りを許可、内弟子として自宅に住まわせた。

おでん屋タコキュウをもじってタコ八郎

この時、由利徹がつけた芸名は近くのおでん屋タコキュウ(多古久)をもじってタコ八郎。

ところが半年後、清作の体に異変が起こった。

「もうぼちぼち起きて掃除でもしてるのかな?と部屋に行ってみるとまだグーグー寝てるんだよ。戸を開けるとション便の臭いがプンプンするんだよ。大人の寝小便だから臭いがすげーんだよ」

パンチドランカーで寝小便、健忘症、言語障害

どうやら3年間ノーガードでパンチを浴びせ続けた結果らしい。

ボクサーが頭に多くのパンチを受けた後遺症で起こるパンチドランカーだ。

一般名は慢性外傷性脳症、打撃を頭部に受けることにより痴呆症のような症状が出て脳が委縮する。

お寝小ばかりかセリフも覚えられない。

セリフも満足にしゃべれない。

いったいこのままで芸人になれるのか?

いや、それよりもこのままでは師匠に申し訳がない。

これ以上師匠に迷惑はかけられないと入門1年で清作は止む無く由利徹の家を出た。

その後も由利徹の紹介で喜劇人の家を転々としながら浅草のストリップ小屋やキャバレーまわりでコントを演じる毎日。

笑いをとるためにガラス瓶で思い切り頭を叩かれることまでする。

やがてタコ八郎の存在は人々の記憶から遠ざかっていた。

ピンク映画に出演

それから4年、山本晋也映画監督に1本の電話が入った。

「あの~監督の映画が大好きなんです。僕も役者なんですが1度使ってもらえませんか?名前はタコです、タコ八郎です」

こうして清作は再び世間に姿を現したのである。

ヒョウヒョウとした不思議なキャラクターを持つ清作。

初対面でその持ち味に惚れ込んだ山本晋也監督はさっそく自分の作品に起用した。

新たな活躍の場を得た清作は持ち前の体当たり演技で監督の期待に答えた。

その頃、ある事件が持ち上がった。

耳を齧りとられる

酒好きの清作は馴染みの店で飲んでいるうち行きずりの男と大ゲンカをはじめてしまった。

もとボクサーのパンチは危険な凶器と同じ、パンチは使えない。

とっさに清作は相手に噛みつこうとする。

ところが相手の方が清作の耳にガブリ、耳の一部を齧り取られてしまった。

耳が取れちゃった。

これじゃもう映画にも出られない。

清作は山本監督に報告の電話を入れる。

「取れちゃったものしょうがないじゃないか。それでいこう」

それでいいのか?

本当にいいのか?

そういうことか?

左目が見えない、右耳が取れちゃった、ありのままの自分を見せればいい、それでお客さんが喜んでくるなら。

不思議なことにこの頃から寝小便も止まりはじめた。

幸せの黄色いハンカチに出演

そんなある日、清作を大喜びさせる電話がある名監督から迷い込んだ。

映画の出演依頼だった。

電話の主は寅さんシリーズの巨匠山田洋二監督、しかも、共演者はあの高倉健、桃井かおり、武田鉄矢。

映画はあのヒット作「幸せの黄色いハンカチ」だった。

これを期に映画やテレビの出演が増えるとともに清作の交友関係も広がりをみせていく。

タコ八郎絶頂期到来

後に清作はこうメモ書している。

この耳もこれで結構いいんだよ。

人の話が聞けるようになった。

前はそういうこと無かったからね。

「オレが、オレが」だったから。

徐々にその存在を認められていくタコ八郎、しかしそれはただ幸運というだけではなかった。

東京新宿百人町のアパートに清作は住んでいた。

共同玄関をあがって2回の突き当り、それが六畳一間の清作の城だった。

だけれど清作はほとんど部屋には帰らず友だちの家を転々と居候、それを誰もが喜んで迎えた。

そんな暖かい友人に囲まれながら清作はテレビドラマやバラエティー番組を通してお茶の間の人気ものとなっていく。

岩海水浴場で心臓麻痺

1985年7月、清作は親しい友人と一緒に毎年恒例の海水浴にでかけた。

場所は神奈川県真鶴の岩海水浴場。

今、まさに沖に泳ぎ出ようとする清作。

そしてこれが清作の最後の姿でもあった。

海に泳ぎだした清作はこの後、心臓麻痺を起こし帰らぬ人になる。

清作の葬儀の日、参列者の間では不思議な話がささやかれていた。

兄への遺言

死の3か月前清作は仙台に帰り、兄にあるものを手渡した。

「貯金通帳を持って来て預かって欲しいって言うんです。使うんだったら使ってもいいからって。300万円ぐらいありました」

師匠由利徹への遺言

そして死の前日の朝、「死んだ前の日だよ。先生、俺コマーシャルやったんで金があるんですがこれで麻雀やってください」て言うんだよね。

「いいよ-、冗談じゃないよ、珍しい事するんじゃないよ」って断ったら

「いや、どうしてもこれ、受け取って欲しいです」

そうか「これは有難くて使えないな~、そしたら翌日亡くなっちゃった」

タコは死んで海へ帰った

タコは死んで海へ帰った、悲しいことは何もない。

タコ八郎は皆の胸の中に棲家を変えた。

台東区下谷2丁目、法昌寺にタコ八郎のお地蔵様がある。

「めいわくかけて ありがとう」タコ八郎

皆に好かれたタコ八郎

明日のジョーを地でいった男

漫画「明日のジョー」が生まれる前からノーガード戦法でチャンピオンまでなった男。

ノーガード戦法には悲しい理由があった。

子供の頃から気を使う

裕福な農家に生まれ、ヒョウキンで心優しい人気者

泥玉投げ合いで左目損傷、やがて視力ゼロへ

喜劇役者に憧れる日々

ボクシング県大会で優勝

喜劇役者を夢見ながら集団就職で上京

ボクシングチャンピオン

笹崎ボクシングシムに入門

プロ試験では視力検査表を丸暗記

日本新人王決定戦で苦渋の棄権

日本チャンピオン獲得

片目の限界、ボクシング引退

芸人タコ八郎

喜劇芸人由利徹に弟子入り

パンチドランカーで寝小便、健忘症、言語障害

ピンク映画から幸せのハンカチで高倉健と共演

喜劇芸人タコ八郎絶頂期到来

海水浴で心臓麻痺、帰らぬ人になる

型破り、捨て身、体当たり、皆が好きだった、不思議な人

ノーガード戦法で最後は真っ白な灰になった